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⑤ 平城宮跡 (奈良県西大寺)

 この遺跡は明治時代から昭和にかけて保存が始まった旧平城京の宮殿である平城宮跡をそのまま保存した遺跡です。現在では朱雀門と大極殿が建立されています。真ん中に第一次大極殿と第二次大極殿があって、広さは普通の球場より広いです。
 本当に何もないところなので、催しがあった時に来てもがっかりするかも知れませんが、歴史はしっかりしています。特に近くにある歴史博物館ではこの時代の木簡が公開されているので、その漢字を読むことが出来ます(平安期のくずしではなくてしっかりとした楷書体で書かれている)。遠く朝鮮からの施設や唐からの使節もここに来たはずです。
 近くには遺跡類:特に古墳が点在していて、北西に位置する佐紀神社が僕は好きです。
 そこは元々物部氏の武器庫があったところで今では何か神々しい感じがして、武器がもらえるのではないかと感じるほどでした。しかし他にはあまり歴史をしらないので一つ隣の駅にある神功皇后のことを書きたいと思います。
 第14台天皇の仲哀天皇の后で、お腹に応神天皇を身ごもりながら朝鮮までわたり平定したという記述がある豪の女性です。そのお腹にいたときから皇位が約束されていたことから胎中天皇とも15台天皇は言いますが、月延石を抱えてその出産を延ばしたという伝説もあることから月読神社とも密接なかかわりがあるとも言われています。現在京都市嵐山にある松尾神社の境内の月読神社が総本家のような形ですが、もともとは壹岐島に祀られていたと記述があります。それは、もともとから神功皇后の出産延期に関わりがあるとして、北九州でも祀られていたと推測していますが、紆余曲折でいまの京都府にまで遷されることになったと聞いています。

 あの辺りは意外と歴史が埋もれていて、特に神功皇后陵近くの大神神社跡というところに三輪族との関連を見ています。もともと物部氏につかえていた彼らですから(饒速日命というのが三輪山に下りてきて後の神武天皇が東征してきたときに皇位を譲っているから元々の王は物部だったのではないかという考察もある)何かしら物部氏と関連があるものがその地にも深いのかもしれません。物部氏に仕えていたというのは、その饒速日に仕えていた長臑彦(ナガスネヒコ)という人物が元々の先住民だったのではないかと推測されるからです。その長臑彦と三輪族の関連が今一つ掴めないのですが状況証拠から(三輪山を祀る一族として三輪族が選ばれているところから先住民であった可能性も)、子孫だった可能性があります。神功皇后の側近にも彼らがいた可能性もありますし、その後の敏達天皇期に三輪君逆が引き立てられた伏線になっていたのかもしれません。
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