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アメリカにおける三輪一族とは?

 分かりません。本当にわからない。僕の仮説が正しければ、日本の神道にあたるものがキリストにかかわるモルモン書になるはずなのですが、日本でアメリカのことをする理由は「もう離れられない」からですが、もう日本人はアメリカ人になっているのでしょうか?
 結論から言うとまだなっていないと思います。日本語と宗教を受け入れないからです。ローマ法は貪欲に取り入れていますがギリシア古典哲学が根付いていないので論理学がありません。だから日本人はまだ日本人のままだと思います。
 ではその中で、日本というか私がアメリカのことをする意味はあるのでしょうか?
 おそらくないと思います。私はハリウッド映画や英語の優勢な社会的ポジションを見て、それこそ支配者の論理だと認識したから従うことを決意したまでです。

 アメリカのもので日本の歴史を組み立てる。そうすれば日本人のままでアメリカで生活してくことが出来る。荒野が広がるバックグラウンドにも、キリストというバックグラウンドがない日本人にも、日本の歴史に似ているものを追うことで日本人のままアメリカ社会に溶け込めるかもしれない。日本でいくらアメリカ人になり切ろうとしても、バックグラウンドが違うからなり切れない。それなのに社会的圧力はみんながアメリカ人になろうとしていると感じる。アメリカの文法のまま思考し会話し、彼らのことを理解しようとしても・・・。私は弱いから周りに流されるままでした。少なくともそう感じていた。でも、アメリカのことをしていい理由が出来つつある。日本の歴史を追うことで。
 どうして彼らは私のことを蔑んできたのでしょう?それが悔しくて悔しくてたまらない。でも乗り越える何かが足りない。そう考えてきた28年間でした。そして、いま何に出会っているかというと、ネイティブ・アメリカンから始まってスピリチュアリズム、霊的思考、そして南無阿弥陀仏からモルモンへと、ダイナミックに動いてきています。それらを受け入れることで、少しづつ変わってきましたけど、それは社会的に見たら変人に見られる。そう抹殺される。どうしたらこの社会に溶け込んで生きていくことが出来るのでしょう?

 一般社会常識に従うこと。その常識は学校と家で学べるものですが、もしどちらも安定して関係が築けない現場だとどうすればいいのでしょうか?いま私は家族療法に取り組んでいます。このままいけばやっと現代に追いつけるまでの手がかりが儒教までつながりましたが、まだまだ時間がかかりそうです。それまでの歴史として、僕はどのように生き抜けばいいのでしょうか?
 それまでの歴史の登場人物はどのようにして生き抜いてきたのでしょうか?
 それまでに必要なことは、演技の蓄積。演技を色々なところでおこないそのサンプルをとる。
 分からない。

大国主命 『出雲と大和』岩波新書より

 三輪一族の研究について最も大事なのは大国主命だ。
 上記の本によれば、オオナムチ命と大国主命と大物主命は同体異名の神であり、国づくりをしている途中や自然崇拝に神の人格が取りこまれた形が、それぞれオオナムチ命と大物主命で、大国主命の名前が付けられているときは国土平定が完了しているときであるとしている。森羅万象の象徴として大物主で、大国主はまた別名にアシハラノシコオ(葦原醜男)があり、その「シコ」は勇猛であることを示している古語なので、彼は葦原の中つ国で最も勇猛な神の一つであった。
 それの古代分布を見ると、出雲から鳥取、丹波、越の国へと広がっており、彼が平定した国が新潟県や石川県まで広がっていたことを示している。

 最も重要なのは出雲の国で、彼がスサノオのいる根の国から持ち帰った琴が置かれている山や、かつて彼の魂が鎮められていた磐座(いわくら)がある山など、出雲には彼が実際に住んでいたのではないかという痕跡がそこかしこに残されている。最も顕著なのは鉄と磐座の関係で、鉄の鉱脈を探していた時に見つけた磐座信仰が各地に残される形で出雲とのつながりが見つかるということだった。
 まだ途中までしか読んでいないが、この三輪一族を見つけるための大きなリトマス試験紙が大国主命であることは間違いがないであろう。彼を研究するにあたって大きな問題は二つで、彼はどのような人物で大和とかかわりがあったかということと、大和朝廷にどのようにして国譲りをしたかということで、三輪一族は大和の三輪山にかかわる古い氏族であることから土着したものと出雲との混交が見られるからである。やはり出雲がどのように「国譲り」をしてアマテラスやタカミムスビが代表するような渡来の天神系の神たちにどのようにして大切な国土を譲ったかを調べることは、どのように大和朝廷に彼ら三輪一族が食い込んでいったのかを調べる大きなリトマス試験紙になりうるということである。
 なぜ出雲の神が大和朝廷の重要な拠点に祀られ、時の天皇たちが無視していけなかったのかを調べることは、大和朝廷が出雲の神々たちをどのように軽んじていったかをも見ることになる。その上に天津神の皇祖神や朝廷につながる神たちが連なるわけで、どのように国津神たちが服属していったかの大きな歴史を確かめ調べることになるからだ。

 はたして三輪一族とは何者だったのか?スサノオにつながる大きな氏族なのか、それとも出雲と血縁関係があったか、そして古代氏族の中で先住民系であるのはどの氏族か、など語りつくせば全然足りない話題がそこかしこにある。無論証拠を挙げることは必要で、それをぬかすと独断になってしまうが、少なくとも大きく広がるご祭神の経歴を調べることはその一助となる。その系譜から出雲の神と大和、丹波がつながり、山陰から畿内、そして北陸に至る一大国家が存在していたことになる。信濃まで広がっていたという記述も上記の本にある。
 私が調べたいのはこれが持つ現代的な意味で、現代の日本で理解する神が、かつての古代国家で理解されていた神とはどのように違うかを調べることは、国家祭祀や現在の皇室神道などの現在で公的な祭祀関係にも影響すると思うからだ(仮説ですが)。

 土着されていないキリスト教を理解することはかつての日本で神道が現れたときの精神性に似ているのではないかというのが私の仮説だが、それは荒唐無稽でちょっと検証が不可能である。いずれキリスト教も日本に土着していくと思うので、神(キリスト)が根付く過程がかつての日本で祭祀形態が根付いていく分布体系に似ていくのでは?と考えていたのだが、暴論だった。
 ネイティブ・アメリカンや(先住民と呼ばれている人たちは一括りにして)アイヌの方たちの歴史は、そのまま縄文に当てはめられる文化を持っているというのが私の仮説で、それを推論する本なども存在し(吉田敦彦氏の著作など)それの克服というか歴史を辿るために次に必要としたのがモルモン書だったが(神道をユダヤ教という人もあり、天橋立で古代イスラエル人の軌跡を見つけたというユダヤの方に実際に会ったことがある)、キリストの理解としてどのようにすればいいのだろうかと疑問に思って過ごしてきた結果、何も答えが見つからなく四苦八苦している。
 本当に神道を理解知るためにはどうしたらいいのだろう?本当に神道を理解して肌身はださず身に着けておくためには、その様な状況に入り込む必要がある。すなわち、かつての日本人が経験した自然崇拝から古代祭祀へと突き進む必要があった過程を現代に復元して経験することが必要なのではないかというのが私の思いで、実際そうだったが、これも暴論でかつての日本人が経験したような神道が理解されていく過程は、現代では復元できそうにない。過程を疑似体験するために種々の宗教団体や宗教体験を必要とするが(この場合モルモン教会)、これは現代で通用していることが条件となる。アメリカで通用し日本で活躍しているものがおそらく必要になる。
 かつての中国大陸にあたるものが現代ではアメリカ大陸になるのではないか?かつての中国から輸入してきた数々の文物が英語のテキストなのではないか?唯一違うのは占領されたことで、これは大きなくさびを現在に打ち込んでいるのではないか?アメリカは日本にとって巨大な軍事国家でこれをのして乗り越えることは不可能ではないか?ならばこれからも日本はアメリカ化していくのではないか?このままアメリカ化していくと日本の宗教や歴史が失われていくのではないか?
 そうした危機感から、私は「アメリカの国家から日本の歴史を組み立てていこう」と考えた。むしろそうせざるを得なかった。アメリカのものを使って日本の歴史を疑似体験していく。こうすることでしか現在の日本を乗り越えていく道が見つからなかったりして、など、ぐるぐる頭の中が混乱して動かなくなることも多々あるのだが、こうしないことには日本人が進む道も見えてこない気がする。というより私が進む道が見えてこないような気がする。日本に投影している私個人の渇望は、どのようにして生き残っていくかということで、これを学べるのは「アメリカで通用して日本的なものに組み替えていける歴史」でしかないのではないか、という危機感がいつも私の脳裏を突き動かす。日本の歴史に組み替えていけるものとして現在発見しているのは、ラコタ・インディアンやトム・ブラウン・ジュニアに継承される大地の掟(縄文時代・旧石器時代=先住民文化)とニューエイジ思想(スピリチュアルな物を祀るのに必要とする=古代精神文化)、モルモン書(神道を理解し、ユダヤ教と見立てた古代神道を理解するために使う、旧約聖書の理解につなげる=国の根幹の論理の解明=天皇制の解明)、そして英語(=公的な文書でつかわれる日本語か)である。
 こうしてみると荒唐無稽の何物でもないのだが、特にモルモン書のあたりが危うい。
 キリストと天皇陛下を比することが出来るのかということや、無理やりつなげているだけではないかと思うので、これは取り下げることにする。
 このブレ動いてしまう自分を支える背骨として、神に比する南無阿弥陀仏を考え出したのだが、これも無理やりつなげている感じがしてしんどい。一体どうすれば統合が取れるのか全く分からない状況である。
 すいません、本当にこれ荒唐無稽です。
 最後に南無阿弥陀仏の考察だけして終わります。

 南無阿弥陀仏はこの世の根幹である。なぜならこの世の法則の象徴である仏と私が結びついている、仏凡一如の状態で、法則に乗りかかっている状態を表しているからで・・・・。証拠がないよ!


 「今ここにはこの世の法則が働いている。この世の法則に従わないとこの世では生きられない。しかしこの世の法則は一人間には捉えきれないので、その法則に従っているという信仰が必要である。この法則の象徴として数々の人間たちは説明をしようと努力してきた。それらが一番宗教に結晶している。なぜなら意識の一番深いところまでアプローチしているからで、理性の限界を超えているからだ。理性や記述できないものの象徴として佛やキリスト(神)、アッラーなどが考察されてきたが、人間の理性ではすべてを捉えきることはできない。だから土着の縛りを受けることになる(言葉や文化、歴史は幼い頃に受けた基本が根付くからで、その縛りを受ける)。それらで可能な限り究竟を目指したものでなければこの世の法則の象徴とすることが出来ない。それらが日本では仏教が最も深く研究され蓄積されてきたのではないか。そこから私は仏教へと行きつくことになった・・・・。」
 でも理性の限界を超えるものは認識もできないし、信じることも出来ないので、これは難しいのではないか。こんなことやり理性でとらえ切れるものに集中した方がいい。なんで理性の限界を超えるものとして佛や神が選べるのかも分からないし、超越性は演繹法なので証拠がない、これは難しい。だからこの世を認識できる科学的理性として物理学からはじめようか。とにかく何かしら科学のものを始める必要がある、証拠があるものから。(神や仏への)判断を停止して、答えが導き出せるものからしか結論をださないようにしよう。
 とにかく僕が信じられるものは理性的な判断だけになりそうだな。これを誰かに相談したいけど、自己批判できることは理性の特徴なので僕はもう理性的と判断してもいいだろう。
 荒唐無稽なものは排除する。判断できないものは判断できない。なぜ宗教に結晶しているといえるのかは答えられないので(今は)、下支えがもろいものは判断しない。

大友主命と大友宗麟

 三輪一族の中に大友主命という人がいる。確か神功皇后について「三韓征伐」まで行った人だが、大友宗麟の大友姓の下になっている人の筈です。三輪氏の末裔が宇佐八幡を祀るために九州に派遣されているのですが、その末裔から出たか、大友という土地から名前を取っているので、おそらく九州に仲哀天皇と神功皇后、大友主命が来ているときにゆかりのある土地になったのでしょう。
 奈良県にある埋蔵文化研究所の書庫の『日本姓氏事典』に大友宗麟のことが載っていて、三輪氏の出自と書いてあったのを覚えています。詳しいページ数や本の名前を正確に覚えていないのですが、書いてあったのを覚えています。
 九州の地は当時、奈良から近かったのでしょうか?あの時代にあそこまで動いているのは後の時代の防人ぐらいしか思いつかないのですが、意外と動ける範囲なのでしょうか?
 神功皇后も暗峠から九州まで行きつき、朝鮮にわたってすべて征服したという伝説を持つ人で、八幡神の一人になっている人です(お腹に応神天皇を身ごもりながら行ったので、応神天皇は胎中天皇とも呼ばれる)。後の韓国併合時もこの伝説が基になって理論づけられていたとも聞いたことがあるのですが、この時代に果たしてそのようなことがあったかは分かりません。少なくとも、神功皇后の墓というのは奈良に存在していて、その近くにかつて大神大社という所があったという記録があります(今はない、鳥居と碑だけが残っている)。神功皇后と三輪のつながりはあるのですが、この大友主という人物はオオタタネコノミコトの孫です。おそらく神主にゆかりのある役職についていたはずですが、詳しいことは分かっていません。
 神功皇后尾墓の近くには仲哀天皇や平城天皇、持統天皇などあらゆる歴史上の人物の墓が存在し、平城宮跡も近くにあります。このあたりには古い神社も多く、かつて物部氏の武器庫があったという佐紀神社も大極殿北方に存在します。
 一体奈良古代史というのは謎が多く、解明が難しくて推論を重ねていくしかないのですが、この三輪氏の切り口から見えていくと、神道のことが分かるのではないかと期待しています。

 全国にある三輪一族にゆかりのある場所として、岐阜の大神大社があります。現在も奈良の大神神社とつながりがあるのですが、長野県にも三輪の文字があります。どうやら全国に一族は散らばっていたと考えていいでしょう。

スサノオという特殊性 日本の三尊神の一つ

 スサノオの出身地が熊野であるという記述を、日本氏族事典で発見したように思います。
 熊野には須佐神社というスサノオの名前を付けたところがあり、同じ須佐神社が紀伊にもあるので関連性があるのですが、どうやら社格が高いのは紀伊の方だそうで(『神々の系譜』吉川弘文館)この須佐神社から全国にスサノオ信仰が広まったのではないかという記事がウィキペディアにありました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9C%89%E7%94%B0%E5%B8%82)
だとすると三輪山も、海とつながりのあるスサノオの子孫としての大国主命の化身だから、海とつながりがあるのかもしれません。スサノオは特殊な三貴神でありイザナギの鼻から生まれています(アマテラスは右目からでツクヨミは左目からです)。日本で初めて神主となったのは大直禰子命(オオタタネコノミコト)で祭神を大物主神とする三輪山の祟りを鎮めています。その大物主神は大国主神の奇魂(クシミタマ)と幸魂(サキミタマ)を祀ったものでそれぞれ人間にある4つの魂のの愛の部分と智恵の部分を表しますが、総じて和を表す和魂(にぎみたま)に包摂されます。要はいい部分で親しみの持てる部分ですね。人に和をもたらす。これに対するのが荒魂(あらみたま)で怖い部分、祟りをおこす、または物事を変えるパワーの部分です。恐ろしい災厄をもたらす反面、物事を切り開いて変革をもたらすパワーにもなるので一概に退けるわけには行かないのですが、荒魂は通常刀に象徴されます。和魂はおそらく花に象徴されていて日本の場合、菊でしょう。この和魂と荒魂がセットになって普通の神(人も)なのですが、良く伊勢神宮に参拝する人が、和魂にだけ参拝されて荒魂の社には参拝されないのを見ていて残念に思うことがありました。二つセットになって一つの神ですから、大物主神の荒魂も祀られているところが三輪山の麓にあります。この荒魂の部分をスサノオも持っていて荒々しく高天原を荒らす反面、ヤマタノオロチを倒すほど平和をもたらしたりもしています。このスサノオが紀伊とつながりがあり、また熊野、出雲にもつながりがあるとしたら、その当時からこの二か所は人の往来があったということで、実際桜井の海柘榴市(つばいち)には出雲由来の土器も発生するそうです。ということは・・・スサノオは本当は天神系ではなく国津神の系譜かもしれなく、それがどう日本正史の天津神の天神系=天皇家につながる一族に組み込まれていったのかは興味があり、調べる必要があります。

 余談ですが、スサノオの娘を嫁に取った時の大国主への婿いじめには凄まじいものがあります。この凄まじいの「すさ」はスサノオの「すさ」でもあるですが異説もあります。古語では恐ろしいとか猛々しいの様な意味ですが、元々は「須佐の地」を表す単語でした。須佐の地も恐ろしい何かがあるのかもしれませんが、それは根拠がないので私の一説です。すみません。

三輪一族について

 三輪一族は今も生き延びている。聖徳太子との争いに敗れたが、物部守屋の犠牲によって本家は生き延びることが出来た。その後、律宗に改宗したが観音菩薩を守り神として一族は続いている。
 目的はこの地において一族を反映させることであり、そのなぜ滅びたかを探る旅が今も続いている。

三輪一族のまとめ

 大神神社を主体とする一族であり、初代神武天皇の后も輩出した一族は聖徳太子(厩戸皇子)との争に敗れて没落した。三輪君逆の時代に物部と穴穂部皇子を推したときに没落が始まってしまった。物部はすべてを背負って滅び去ったが(一族は残ったが)、三輪一族はその主流が残ることになり京都のほうに逃れたのかもしれない。仏像を廃したところから没落が始まったのだが、もしそうだとしてその後の彼らはどこへといったのだろう?

水度神社

もと天火明命を祀っていたらしいが今は天照皇大神にすり替えられている。天火明命は饒速日命と同じという伝承があるから、天神系で三輪山に関係があり物部氏の祖になった人だ。おそらく。それを城陽の地も祀っていることからこの地は物部の領地の一つだったのか?市内にある別の神社、荒見神社と水主神社も天火明命と饒速日命を祀っていることから、この地に三輪山と物部と天神の影響があったことが窺える。
 そういえば天神といえば大事な皇統に属する系統だけど、その天神に封印された地祇(くにつかみ)の土蜘蛛を思い出す。あれは一言主神社だったと思うけど、天神がそれを封印していたのを切るイメージで封印を解きにいったのを思い出すけどあれは何だったのか?涼しい風が吹いていた。
 いつも思うのだけど、地祇ってジャパニーズ・インディアンですよね。天神はやはり侵略者だったのか?大陸から渡ってきたものである説が強いけど、国内にいる純粋培養説にはどうも与せない。なぜなら、ネイティブアメリカンの思想からイエス・キリストは生まれてこないからや。イエス・キリストのような天神系はどうやって土着の大地に根差す自然崇拝の中から生まれてくる?というより、どうしたら一神教のような天神菩薩が天降りてこの世にやってくる物語が生まれるというのだ?決して縄文の世界からあのようなイエス・キリストがやってきたような天神がこの世に下りてくるという信仰は出来ない。それは円環を敷いた基礎の思想だし救い主としてのイエス・キリストは外から来るしかない。それはアメリカ大陸の歴史が証明している。旧石器時代と同じ形で暮らしていたネイティブアメリカンに、その知恵は継承できているけども、ヨーロッパから来た都市や文字を形成する文明は存在していなかった。それが存在していると主張しているのがモルモン書だけども。やはりジョゼフ・スミスも外か来た一団の末裔なので、外からそれらは来るしかなかった。だから皇統も僕は外から来ているものだと思っている。それもほど遠いシルクロードの先から。だから僕はモルモン書を通すことによって、アメリカインディアンと縄文時代を比較し、イエス・キリストに従うものとして天神に従う者たちを比較構成したいと思う。では、その先がある。

 モルモン書の限界はイエス・キリストまでだけど、日本の歴史はもっと先を進んでいる。イエス・キリストとしての天神系が後に仏教へと進むことになる。これは聖徳太子が民族宗教の限界として神道を捉えなおし、世界宗教である仏教へと鞍替えしたことに象徴している。仏教を取り入れながらも神道を残しているのは、イエス・キリストへの信仰は残すけどもそれは中途半端だということを意味している。だから次につながるものとして、モルモン書の中途半端さを告発したものでなければならない。もしくは末日聖徒イエス・キリスト教会の民族宗教としての性格を喝破したものを。となると僕はイスラームにその可能性を感じるがそれはどれに至るのかが分からない。過激派は勿論論外だけど、正しいイスラームの知識として何を学ぶべきなのかが?イスラームは、堕落したアブラハムの民を救うために最後の啓示者としてムハンマドを遣わされたという信仰だけど(僕の理解する限り)それがどうモルモンをどう批判しているのかということを知りたい。正しく理性的に。でも世の中の基礎を学ぶためにまず科学技術が学びたい。神道の後に入って生きているのは儒教やからね。まずは理性として象徴される儒教の法を学ばないと。でもしんどいなこれ。

儒教として象徴されるのは家族、学問、理性などか?だからそれらを基にして再構成するようになると、今では、家族療法、医者、純粋理性批判?、自然科学体系、ヨーロッパ理性、国家、インフラシステム、人間の考えだした正しいものというか法体系、知性の塊、蓄積科学なのかな?
イエス・キリストと矛盾しない形で科学技術や国家を構成している人間の理性を学ばないと。だからおそらくはすべての信仰の平等を歌ったウエストファリア条約から始まる人間讃歌の歴史を調べないと。ルネッサンスでもなく仏蘭西革命へとつながるもの。自由・平等・博愛。これらを構成するものは現在では理性ということになりその分岐点がカントか。もう一度、古典哲学から始まる近代理性の系譜を調べなければ?おれはいったいどこを目指している? 南無阿弥陀仏

⑦化野念仏寺(あだしの)・出雲大神宮 (京都府嵐山・亀岡)

 今日、行ってきました。明智光秀が好きで、愛宕神社に行こうとしたのですが山道がつながっていず(ナビに従って一番近くまで行くと山道に出た)途中で引き返してきました。
 明智光秀は正統(皇統)を守ろうとして織田信長を討ったという説を本で本で読んだことがあります。それは正しいと思います。つまり、諸々の原因があるけども怨恨説より僕は皇統を守ろうとしたという方を取ろうと思います。「ときは今天が下しる五月哉」と詠んだとあり、それを確かめに行きたかったのですが再チャレンジをしようと思います。
 
 化野では空海に出会いました。やはり空海には何かがあると感じざるを得ません。それに平安期の記憶がすっぽり抜けているので、神や皇統や随神の道が分かるようになればそちらに向かいたいです。

 出雲大神宮では、国常立尊というおそらく先住民の神を祀る磐座を発見してきました。一万年ほど皇祖そり溯ると書いてありましたし、その可能性は高いと思いましたが、それでも祀り方が神式なので、いくら先住民といえど神には勝てなかったのではと思います。つまり僕らが日頃意識できる縄文の世界にも、既に神道が入り込んでいた可能性が疑われました。蝦夷にも既にあったのかもしれない。いくら断絶していても神の方法で祀るのだから日本は神の国だなぁと思いました。
 大国主命や出雲がなぜ多くあるのかに疑問を持ちます。
 かなり離れているはずなのに、なぜ出張所が三輪山の麓にあったり京都の北に勧進されているのかが疑問です。
 出雲の謎を解くことが、三輪氏にも近付けるカギだと思います。(三輪氏の神、大物主も大国主命の和魂の奇魂・幸魂だと言われている。)

⑥葛城山・金剛山 (奈良県御所市)

 修験道の開祖、役行者が修業した地として有名ですので修験行者と縁がある土地です。具体的には山頂に不動明王を祀った地があるのですが、もうロープウェイで葛城山には登れますし金剛山は人がいっぱい登るので、踏みしめられた大地を通るわけですが、特にいうことはありませんでした。一つだけ葛城山では体験があったのですが、それは語れません。特別な経験をしたのですが、人には説明が不可能なのでしないでおこうと思います。
 三度ぐらい葛城山にのぼったのですが、この麓に高天彦神社があるのですね。そして高鴨神社という賀茂氏の発祥地として伝わる神社があります。ここから上賀茂神社や下鴨神社が出来ていったと。
 他には土蜘蛛伝説ですね、ここでも僕はあることをしたのですが、それよりもこの人たちが先住民であったことが重要です。ストーキングウルフという先住民との出会いから、僕は日本の先住民の歴史に興味を持つようになりました。結果から言ってそこに答えが見つからなかったのですが、参考にはなりました。構造主義にもそこから出会いましたし、何より虐げられたものからの視線が、僕に公平さを与えてくれました。
 先住民の歴史は、日本においては信仰によって征服されていったと、ある還俗僧から伺ったことがあります。アイヌや出雲、そして蝦夷、など、以前から日本に住んでいた民族の末裔とされる人たち、それらにも神道が浸透していたのでしょうか?乱暴なものいいかもしれませんが、「カムイ」という単語から「カミ」が来ている可能性がありますし、また、皇紀1年初代神武天皇が日本八州を征服したときは武力ではなかったという報告も聞いたことがあります。脇道にそれているかも知れませんが、しかし僕にはその具体的な証拠が見つからないのです。やはり、神道では征服できていなかったのでは?しかし何かつながるものもあり・・・・日本が近代化するときに必要とした神道が、そこから始まっている可能性もあり(明確な規定はないが近代神道と古代神道は分ける必要がある)、一概には言えないかも知れないが何かつながっている。分かりません、正直。でも『国体の本義』を読み解くためには必要かもしれません。

 役行者はある意味バランスがとれていた人ですよね。道教・神道・仏教・山岳信仰(先住民文化)を融合させた人なので。しかしそうすると、本当に中華文明の影響は強かったと思い直します。僕たちの漢字も名前もすべてあちらから来ている可能性があり、ぽっかり抜けていましたし、これら神道や仏教なども漢字を通して規定され直しているので。だから本当に中国のことを学び直す必要があると感じましたがこれを実感するためには、現在の「中華」にあたるものを探る必要があります。それが僕にはどうもアメリカのような気がするのですよね。そうアメリカ、英語とその思想・・・現在のアメリカに学ぶということが、かつての中国にあたる気がしてもしなかったり・・わからないけど、でも可能性としては。
 中国とはどのような地だったのでしょうか?日本人にとっては近くの大国・・・。
 それはいいとして、アメリカのことを学ぶのと中国の共通性は?
 アルファベットと漢字、憲法思想と国体(=聖徳太子のあの御文、国体)思想、そして自国の文化を学びながらかつての国を吸収していく。軍事的には征服されていなかったが、脅威は感じる。仏教や儒教や道教はキリスト教や自己啓発、家族療法、科学か?遣隋使として多くの留学生を送る=米国へのMBAや多くの留学生を送ることと酷似か。皇帝と大統領、それを参考にしての国づくり。あの明治維新としての西欧化も真似事としては才能があるけども自分たちの思想ではないので、二番煎じか?受け身にならざるを得ないのが日本なのでしょうかね。朝鮮がどこにあたるかはわかりませんが、ハワイになってしまうのかと思います。
 でもたのしいです。こうやって考えることは。いずれこのような文化を学んでも日本独自の思想を築いていくような気がします。
 ちょっと広がりすぎましたがここで留めておきます。

⑤ 平城宮跡 (奈良県西大寺)

 この遺跡は明治時代から昭和にかけて保存が始まった旧平城京の宮殿である平城宮跡をそのまま保存した遺跡です。現在では朱雀門と大極殿が建立されています。真ん中に第一次大極殿と第二次大極殿があって、広さは普通の球場より広いです。
 本当に何もないところなので、催しがあった時に来てもがっかりするかも知れませんが、歴史はしっかりしています。特に近くにある歴史博物館ではこの時代の木簡が公開されているので、その漢字を読むことが出来ます(平安期のくずしではなくてしっかりとした楷書体で書かれている)。遠く朝鮮からの施設や唐からの使節もここに来たはずです。
 近くには遺跡類:特に古墳が点在していて、北西に位置する佐紀神社が僕は好きです。
 そこは元々物部氏の武器庫があったところで今では何か神々しい感じがして、武器がもらえるのではないかと感じるほどでした。しかし他にはあまり歴史をしらないので一つ隣の駅にある神功皇后のことを書きたいと思います。
 第14台天皇の仲哀天皇の后で、お腹に応神天皇を身ごもりながら朝鮮までわたり平定したという記述がある豪の女性です。そのお腹にいたときから皇位が約束されていたことから胎中天皇とも15台天皇は言いますが、月延石を抱えてその出産を延ばしたという伝説もあることから月読神社とも密接なかかわりがあるとも言われています。現在京都市嵐山にある松尾神社の境内の月読神社が総本家のような形ですが、もともとは壹岐島に祀られていたと記述があります。それは、もともとから神功皇后の出産延期に関わりがあるとして、北九州でも祀られていたと推測していますが、紆余曲折でいまの京都府にまで遷されることになったと聞いています。

 あの辺りは意外と歴史が埋もれていて、特に神功皇后陵近くの大神神社跡というところに三輪族との関連を見ています。もともと物部氏につかえていた彼らですから(饒速日命というのが三輪山に下りてきて後の神武天皇が東征してきたときに皇位を譲っているから元々の王は物部だったのではないかという考察もある)何かしら物部氏と関連があるものがその地にも深いのかもしれません。物部氏に仕えていたというのは、その饒速日に仕えていた長臑彦(ナガスネヒコ)という人物が元々の先住民だったのではないかと推測されるからです。その長臑彦と三輪族の関連が今一つ掴めないのですが状況証拠から(三輪山を祀る一族として三輪族が選ばれているところから先住民であった可能性も)、子孫だった可能性があります。神功皇后の側近にも彼らがいた可能性もありますし、その後の敏達天皇期に三輪君逆が引き立てられた伏線になっていたのかもしれません。
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