SSブログ

水度神社

もと天火明命を祀っていたらしいが今は天照皇大神にすり替えられている。天火明命は饒速日命と同じという伝承があるから、天神系で三輪山に関係があり物部氏の祖になった人だ。おそらく。それを城陽の地も祀っていることからこの地は物部の領地の一つだったのか?市内にある別の神社、荒見神社と水主神社も天火明命と饒速日命を祀っていることから、この地に三輪山と物部と天神の影響があったことが窺える。
 そういえば天神といえば大事な皇統に属する系統だけど、その天神に封印された地祇(くにつかみ)の土蜘蛛を思い出す。あれは一言主神社だったと思うけど、天神がそれを封印していたのを切るイメージで封印を解きにいったのを思い出すけどあれは何だったのか?涼しい風が吹いていた。
 いつも思うのだけど、地祇ってジャパニーズ・インディアンですよね。天神はやはり侵略者だったのか?大陸から渡ってきたものである説が強いけど、国内にいる純粋培養説にはどうも与せない。なぜなら、ネイティブアメリカンの思想からイエス・キリストは生まれてこないからや。イエス・キリストのような天神系はどうやって土着の大地に根差す自然崇拝の中から生まれてくる?というより、どうしたら一神教のような天神菩薩が天降りてこの世にやってくる物語が生まれるというのだ?決して縄文の世界からあのようなイエス・キリストがやってきたような天神がこの世に下りてくるという信仰は出来ない。それは円環を敷いた基礎の思想だし救い主としてのイエス・キリストは外から来るしかない。それはアメリカ大陸の歴史が証明している。旧石器時代と同じ形で暮らしていたネイティブアメリカンに、その知恵は継承できているけども、ヨーロッパから来た都市や文字を形成する文明は存在していなかった。それが存在していると主張しているのがモルモン書だけども。やはりジョゼフ・スミスも外か来た一団の末裔なので、外からそれらは来るしかなかった。だから皇統も僕は外から来ているものだと思っている。それもほど遠いシルクロードの先から。だから僕はモルモン書を通すことによって、アメリカインディアンと縄文時代を比較し、イエス・キリストに従うものとして天神に従う者たちを比較構成したいと思う。では、その先がある。

 モルモン書の限界はイエス・キリストまでだけど、日本の歴史はもっと先を進んでいる。イエス・キリストとしての天神系が後に仏教へと進むことになる。これは聖徳太子が民族宗教の限界として神道を捉えなおし、世界宗教である仏教へと鞍替えしたことに象徴している。仏教を取り入れながらも神道を残しているのは、イエス・キリストへの信仰は残すけどもそれは中途半端だということを意味している。だから次につながるものとして、モルモン書の中途半端さを告発したものでなければならない。もしくは末日聖徒イエス・キリスト教会の民族宗教としての性格を喝破したものを。となると僕はイスラームにその可能性を感じるがそれはどれに至るのかが分からない。過激派は勿論論外だけど、正しいイスラームの知識として何を学ぶべきなのかが?イスラームは、堕落したアブラハムの民を救うために最後の啓示者としてムハンマドを遣わされたという信仰だけど(僕の理解する限り)それがどうモルモンをどう批判しているのかということを知りたい。正しく理性的に。でも世の中の基礎を学ぶためにまず科学技術が学びたい。神道の後に入って生きているのは儒教やからね。まずは理性として象徴される儒教の法を学ばないと。でもしんどいなこれ。

儒教として象徴されるのは家族、学問、理性などか?だからそれらを基にして再構成するようになると、今では、家族療法、医者、純粋理性批判?、自然科学体系、ヨーロッパ理性、国家、インフラシステム、人間の考えだした正しいものというか法体系、知性の塊、蓄積科学なのかな?
イエス・キリストと矛盾しない形で科学技術や国家を構成している人間の理性を学ばないと。だからおそらくはすべての信仰の平等を歌ったウエストファリア条約から始まる人間讃歌の歴史を調べないと。ルネッサンスでもなく仏蘭西革命へとつながるもの。自由・平等・博愛。これらを構成するものは現在では理性ということになりその分岐点がカントか。もう一度、古典哲学から始まる近代理性の系譜を調べなければ?おれはいったいどこを目指している? 南無阿弥陀仏
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。